ご家族・ご友人が逮捕・起訴されてしまったら、すぐにお電話ください!

0120-845-018

受付時間:7時~23時(土・日・祝日も受付)

初回電話
相談無料
守秘義務
厳守
東京 埼玉 神奈川 千葉

コラム

覚醒剤摂取後の自動車運転で死傷事故。運転開始時に意識不明な状態だった場合はどうなる?

 東池袋自動車暴走死傷事故は社会的耳目を大きく集めました。そして、同種の事故に対して厳罰を求める署名活動にも大きな賛同が寄せられ、自動車事故に対して厳重な対応を求める世論は強固なものになったように感じております。しかしながら、我が国が自動車の運転を広く一般市民に許可し、自動車の運転が一般市民の生活に根付いている以上、同種の事故を完全になくすことは困難です。衝突被害軽減制動システム等の技術の発展は認められますが、目を背けたくなるような事件の報道も、毎月のように目にします。
 2020年5月に報道された事件も、被害者の御遺族の心情を考えると、非常に身につまされるものでした。
 報道によると、職務質問を振り切るために発進した自動車が歩道で暴走し、歩道にいた方が巻き込まれて亡くなってしまったようです。そして、被疑者の尿から覚せい剤成分が検出されたことも明らかとなったようです。
 この事件の報道については、被疑者に対して厳罰を望むコメントが多く付されていました。
 しかし、覚醒剤の過量摂取によって責任能力を喪失した状況で自動車を運転していたとすればどうでしょうか。
 アルコールを摂取した後に運転することが禁止されている以上、違法な薬物を摂取した場合、当然に自動車の運転を避けるべきではありますが、自動車の運転を開始する前に、責任能力を喪失した状況にあった場合、その後の行為を理由に刑罰を科すことができるのでしょうか。
 今回の事件の報道に対するコメントで、このような点について疑問を呈するものが散見されました。このような問題点を解決する理屈のことを、法学上「原因において自由な行為」と呼んでいます。そこで、今回は、上述したような事例を前提に、「原因において自由な行為」について解説させていただきます。

 

責任能力について

条文の内容

 我が国の被告人に対する刑事裁判において、有罪判決を宣告するためには、被告人に責任能力が認められなければならないと理解されています。そこで、まず、責任能力についての条文を確認してみましょう。

刑法

第39条 1項 心神喪失者の行為は、罰しない。 2項 心神耗弱者の行為は、その刑を減刑する。

 つまり、心神喪失者と認められた場合には、その行為が刑法等に違反する行為であっても、刑罰を科すことはできません。このような場合を、「責任能力」がないと評価するのです。
 「心神喪失者」とは、精神の障害により物事の善悪を判断する能力が完全に欠けている者か、その判断にしたがって行動する能力を完全に欠いている者を意味することになります。
 このような能力を有していない場合には、刑罰等の法律を遵守することに期待することができず、刑罰等に違反したことを非難できませんから、刑罰を科すことができないことになります。そして、犯罪行為に及んだ時に上述した能力があれば、犯罪行為に及ぶ前や犯罪行為に及んだ後に責任能力を欠くような事態となったとしても、犯罪行為に及ぶこととした判断を非難することは可能ですから、責任能力の有無の判断は、犯罪行為に及んだ時にそのような能力があるかどうかを判断することになるのです。

酩酊や薬物による場合

 では、飲酒によって酩酊状態に陥った場合や、覚醒剤等の違法な薬物を摂取して、一時的に上述したような能力を欠くに至った場合でも、責任能力は否定されることになるのでしょうか。例えば、そのような錯乱状況に陥った後に、人を殺害する行為に及んだ場合、自分自身の行為によって責任能力を欠くことになった訳ですから、自業自得として殺人罪を成立させることはできないのでしょうか。
 この点、病的酩酊の場合や違法な薬物の副作用によって幻覚妄想状態に支配されていたような場合等においては、自分自身の行為によって責任能力を欠くような状態に陥ったとしても、責任能力は否定されるものと解されています。確かに、責任能力を欠くことになった原因を自分自身で作出していますし、違法な薬物の摂取を原因とする場合には、その摂取した行為自体が犯罪行為にあたる訳ですが、責任能力を欠く原因となる行為(例えば飲酒や違法な薬物の摂取)によって、殺害されてしまった被害者の生命に危険が生じている訳ではありません。
 被害者の生命に危険が生じたのは、犯人が責任能力を喪失した後の行為であることには変わりない訳ですから、そのような殺人行為に及ぶことを判断した際に、責任能力が失われていたのであれば、やはり責任能力は否定され、刑罰を科すことはできないのです。

自動車運転の場合

 犯罪行為に及んだ際に責任能力が認められなければならないという原則は、全ての犯罪行為に該当する基本的なものです。したがって、自動車の運転に関連する犯罪行為であっても、責任能力が否定される場合には、刑罰を科すことはできません。
 では、居眠り運転によって人を轢いてしまった場合、責任能力は否定されてしまうのでしょうか。
 事故を起こした時点で、運転者が眠ってしまっている場合、眠っている訳ですから善悪を判断することもできませんし、その判断に従って行為することはできません。
 もっとも、居眠り運転に伴う死傷事故について、運転者を処罰できないというのはあまりにも不合理ですし、現実にもそのような扱いにはなっていません。
 それは、過労や飲酒等、正常な運転が困難となるような状況下において自動車を運転する行為自体が犯罪行為であると捉えられているからです。眠ってしまう前に自動車の運転を開始しており、その際には責任能力が認められるため、事故を起こしたその時には責任能力が否定されるような状況であっても、刑罰を科すことができるのです。
 したがって、自動車の運転を開始した際には何らの問題もなかったものの、運転を開始した後、何らかの原因で意識を失ってしまい、事故を起こしてしまった場合には、刑罰を科すことはできないこととなります(てんかん発作等を起こす可能性がある病気を患っている場合で、その病気を患っていることを認識している場合も、正常な運転が困難になることを認識した上で自動車の運転を開始していることになりますので、刑罰が科されることになります。この点については、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律第3条2項に定められていますが、詳細については別の機会に解説させてください)。
 

原因において自由な行為

交通事故の衝突画像

議論の内容

 ここまでのお話を踏まえた上で、冒頭でご紹介した「原因において自由な行為」の内容について解説していきたいと思います。
 この議論は、責任能力の有無は、犯罪行為を行った時点を基準に判断するべきであるという理屈は理解できても、自ら責任能力を欠く状態に陥っているにも関わらず、その者に刑罰を科すことができないというのが不当ではないかという疑問を解消するために生じたものと言えます。この概念を端的に説明すると、責任能力を失った後の犯罪行為については自分自身でコントロールできない状態にあったとしても、責任能力を失う原因となった行為を行った時点においては、適切な判断能力を有しており、責任能力を失うことがないような行動に期待できることから、自らの自由な判断で責任能力を喪失したような者に対しては、その後の犯罪行為についても刑事罰を科せるというものです。

適用範囲

 現在では、原因において自由な行為であったことを理由に、犯罪行為時に責任能力を喪失しているような事案においても、刑罰を科すことは可能であることについては、多くの実務家や研究者の共通認識になっているものと思います。一方で、どのような場合に、原因において自由な行為であることを理由に、刑罰を科せるのかについては、議論に決着はついていないように思います。
 この点、過失犯については、最高裁大法廷判決昭和26年1月17日の判決が、原因において自由な行為を理由に有罪判決を宣告して以降、この概念を利用して、被告人に刑罰を科すことが可能であるとの考え方が定着しているように思います。この最高裁においては、飲酒によって酩酊した後で、他人を殺害してしまった事案について、酩酊した際に暴力的になることについて十分に自覚していたにもかかわらず、そのような自身の性質について十分に注意することなく飲酒したことについて過失が認められるものと解しています。
 私自身、このような考え方は相当だと思います。
 では、故意犯についてはどうでしょうか。私は、責任能力を失っている段階では、自分自身をコントロールすることができなくなっている以上、意図的に犯罪行為に及んでいるという評価は困難であり、原因において自由な行為であることを理由に、故意犯を成立させることは困難であるように思いますし、成立させるべきではないと思っております。
 例外的に、責任能力を失う前の段階から、何らかの犯罪行為に及ぶことを決意しており、責任能力を失うことによってその犯罪行為を遂行した場合(勢いをつけるために意図的に酩酊するまで飲酒するケースを想定していただけると分かり易いでしょうか)にのみ、故意犯についても、原因において自由な行為を理由に刑罰を科せば足りるのではないでしょうか。

薬物摂取後の交通事故事案における弁護活動

 酒酔いや酒気帯び等の区別と異なり、薬物に関しては、人体の中に含まれている薬物量によって、明確に線引きができませんし、自動車運転処罰法のどの条文に該当するかどうかについては、アルコールが問題となっている場合であっても、血中濃度で具体的な線引きができる訳ではありません。  
 ですから、責任能力の問題とは別に、そのような犯罪が成立するかどうかについても、刑事事件の弁護士としては、争う余地があるのかどうかについて、適切な判断が求められることになります。特に、責任能力を争点とする場合には、責任能力が失われているような危険な状態で自動車を運転していたことを認めることになる訳ですから、責任能力の問題と運転態様の危険性のいずれで争うのかについて、二者択一という訳ではありませんが、シビアな判断を求められます。  
 特に、交通事故事犯に関しては、被害者の方が亡くなる等の重大な結果が生じている場合には、その場で被疑者が逮捕されるケースが多いように思いますし、逮捕に引き続いて勾留されるケースも珍しくありません。そして、裁判においても身体拘束が続くかどうかについて、責任能力を争う場合に、勾留を継続させていい訳ではありませんし、その点についても刑事事件の弁護士は強く争う必要があるものの、責任能力を争点とした場合の方が、裁判は長期化する傾向にありますし、勾留が長期化する傾向にあることも否定できません。  
 そもそも、薬物やアルコールを摂取した上で自動車を運転する行為が絶対的に許されないことは明らかなのですが、「許されない行為だから、刑事手続の過程で生じる不利益は全て甘受しなくてはならない」というのでは弁護人が選任されている意味がありません。

まとめ

 今回は、原因において自由な行為という議論について解説させていただきました。法学部の学生であれば、典型的な論点として一度は学習しているように思いますが、一般の方には馴染みのない言葉だと思います。一方で、その内容については、自分で責任能力を失うようなことをした人間に対して刑罰を科せるようにするという一般的なものであり、今回報道されたような事件に対して、どのような対応が望ましいかを考える際には、理解していただけると、より議論が深まるのではないかと思っております。
 今回の事件については詳細が分かりませんから、原因において自由な行為を理由に刑罰を科せるのか、或いはそもそも原因において自由な行為の問題にならない可能性も十分にあります。個人的には、原因において自由な行為の問題にはならないのではないかと考えていますが、この点が問題になるのではないかというコメントが、今回の事件の報道記事に対するコメントに付されていましたので、いい機会だと思い解説させていただきました。

Tweet

関連する記事